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地名からの江戸探索

【企画室】Vol.13

2017年05月22日

社会・生活

企画室
新井 大輔

 高層ビルが林立する首都・東京。でも、地名や駅名には意外にも古風で歴史を感じさせる名前が残っている。由来を調べてみると、そこから徳川家が治めた江戸の様子が浮かび上がってくる。

 リコー経済社会研究所があるのは千代田区【丸の内】。本丸、二の丸の言葉で知られるように、「丸」は城を表す。つまり丸の内は「江戸城の敷地の内側」ということになる。今も、丸の内エリアから皇居は目と鼻の先にある。

丸の内から皇居を望む

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 江戸幕府は、城への敵の侵入を防ぐため、城門に見附(見張り番所)を置いた。そのうちの主要なものを「江戸城三十六見附」という。丸の内線の【赤坂見附】駅や、四ッ谷駅前にかかる【四谷見附】橋などにその名をとどめる。地名としては残っていないが、ほかにも浅草見附や牛込見附などもあったというから、当時の江戸城の敷地が相当広大であったことがわかる。

今も残る四谷見附の石垣の一部

 

JR線四ツ谷駅にかかる四谷見附橋

 

 日比谷公園で有名な【日比谷】は、海苔(のり)を養殖する際、海中に立てる竹竿「ひび」に由来するとの説がある。江戸幕府の初代将軍、徳川家康が入府した当初、あの一帯は日比谷入り江と呼ばれる海だったから、江戸前の海苔の養殖場があったのだろう。

 家康はその後、大規模な都市開発に着手した。その一つが、急激な人口増加に対処するため、神田山を切り崩して、日比谷周辺を埋め立てるというもの。神田山は、明治大学のキャンパスがある【神田駿河台】のあたりのことで、切り崩した後も高台の名残をとどめる。ちなみに、駿河台の名は駿府の役人を住まわせたことから来るものだ。

 何かと話題の【築地】も埋め立て地である。地を築くから築地で、そのままだ。【銀座】は江戸幕府が銀貨の鋳造所を置いたことに由来する。では、金座はというと、現在の日本銀行本店の敷地にあった。貨幣という点で今と共通する。

 【鶯谷(うぐいすだに)】は京都から来た皇族が「江戸の鶯はなまっている」と、京都からわざわざ鶯を運び、放ったことから名所になった。【御徒町(おかちまち)】は将軍の警護を担う下級武士の御徒が、【馬喰町(ばくろちょう)】は馬の売買を行う仲介業者である馬喰がそれぞれ住んでいたことに由来する。

 都庁がある新都心【新宿】は文字通り、新しくできた宿場の意味。江戸時代、日本橋から甲州街道を下る旅人は最初の宿場である高井戸までが遠く、難儀していた。そこで、中間地点に宿場が作られたというのだ。1699年頃のことだ。

 新人時代、新宿駅から東京駅まで歩いたことがあった。当時の上司から、東京国際フォーラムで開催される展示会の案内チラシを数百枚渡され、チラシを配りながら会場まで来るように指示されたのだ。真夏の7月の朝9時過ぎに事務所を出発し、チラシを配りながら、中央線の線路伝いを歩いた。会場に着いたのは午後3時を回っていたと思う。汗をびっしょりとかき、足にもまめができた。距離にして10数キロだったが、私には辛い道のりだった。

 江戸時代の旅人は、何を思いながら歩いていたのだろうか。地名の意味や由来が分かれば、江戸時代の暮らしぶりをうかがい知ることができる。あの時は、チラシのことしか考えなかったが、江戸時代の町並みや歴史を思いながら歩けば、もう少し楽しい時間になったかもしれない。次に同じ道を歩く時は、是非そうしたいと思う。

 (地名の由来には諸説あり、定説の定まらないものも多いことをご承知おき下さい)

(写真)筆者、貝田尚重

新井 大輔

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